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聖書の結婚観
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一体・一霊
聖書は開巻早々から結婚について、その驚くべき人間性について語っており、また、それをキリスト教の秘義として語っている。創世記の初めの方には、結婚の神的な制定に関する二つの物語が与えられているが、それらを連続的に学ぶならば、結婚というものに無限の富を見出し始めることができよう。全くこれら二つの本文の相違に蹟くことは間違いである。創世記は歴史や生理学の書物ではない。
それは、われわれがそれによって生き、それに服従すゐためにわれわれの心を開くことを命ぜられている神のことばを、われわれに宣言する。どちらの著者も、それぞれの方法で結婚に制定された物語を述べているのであって、言葉や表象は異なっても、霊的事実は同じである。細婚は最初から神によってわれわれにさだめられているのである。前の記事(創世記丁二六-二八)によると、神はそのかたちのごとく人をつくり、これを男と女につくり給うている。
そして、彼は人間に生めよふえよ地に満ちよと命じ給うた。かくて神は全創造物の真中にある人間に目をとめ、すべてを良しと見給う。後の記事(創世記二・一八ーご五)によると、神は男をつくり、これにすべての被造物を治めるこ之を委ね給うて後に、男がひとりでいるヒとは良くないということをさとり、彼に似た「助け手」を彼につくってやろうと決心し給うた。
これらの二つの記事がほとんど同じ言葉で結婚の良き性質を強調していることが注目されゐ。「人がひとりでいるのは良くない……」。「神は見て、良しとされた」。ゆえに、キリスト教国(主と七て冒ーマ・カトリックの伝統の国)がなぜしばしば肉体の結合を原罪と同一視するようになり、かくしてわが西欧文化がいまだにこの偽キリスト教的見解にわざわいされるに至るまで聖書の真理をゆがめてしまつたか、不審に思われるのも当然である。しかし、われわれは、これをとがめる前に、「肉」という言葉の曖昧さがこの不幸な混同に一部の責任噛があるということを認めなくてはならない。
新約聖書は、しばしば肉と罪とを関係づけるが、肉というのは今日の言葉でいうように、ただからだのことのみを言うのではない。この創世記の物語の中では、肉は本力らだのことに適用されているとしても一般に聖聞で肉というのは人惜の全存在、すなわちからだと心と曇いれば人間性と訳してもよい。
この定義に基づけば、人間性は堕罪以来原罪によって悪用され汚されてきたのであるから、なぜ肉がしばしば罪と同一視されるかが理解できようQしかしそれはまた、このことが、なぜ肉の結合たる結婚がかか呑ものとして罪あるものであるということを意味しないかということをも教える。聖書は、結婚の制定が堕罪以前であったことを故意に強調し、神によれるその良さを証し、人間ー一オるのさの中につくられたがゆえに、結婚を人間の完全な部分としているのである。
創世記の記事によると、結婚は同じ被造物のわかつぺからざる二つの部分を驚くべき仕方において結合させることにより、神の創造のわざを真に成就するゆえに、それは善である。神のかたちのごとくにつくられた人はひとりでいるべきではない。彼は、自分に似た伴侶と共にいなければならない。彼は彼女のために生きなければならない。彼の真の運命は一つの遭遇において成就されるが、この遭遇が結婚である。神御自身もひとりのままでい給わず、御自らに創造物を与えんと決心し給うた。
神がその創造物とそれの冠たる人間に対して愛の主となり給うたと同様に、神は、そのかたちのごとぐ似せてつくられた人間が、その人間自身のかたちに似せてつくられた伴侶と共にあり、人間の愛1それも、後で見るように、人間に対する神の愛にかたどらねばならないがーによって彼女につながれるべきことを定め給うた。
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